アンテナの歴史カフェ

第1回 八木アンテナの呼称の由来

現在、各家庭の屋根の上には、大きなトンボのような、テレビ受信用のアンテナが設置されている。
このアンテナは、大正の末期に東北帝国大学(現、東北大学)の八木秀次教授と宇田新太郎講師(当時の職名)によって発明された。
今日では、このアンテナは発明者の名をとって「八木・宇田アンテナ」あるいは「八木アンテナ」(以下、八木アンテナ)と称されている。

発明以来、八木アンテナが太平洋戦争(第二次世界大戦)以前に日本国内で実際に用いられたのは、山形県の酒田市とその沖合40kmにある飛島との間、および、新潟市とその沖合50kmにある佐渡島との間の無線回線に用いられただけであった。

このように、日本では注目を受けることが少なかった八木アンテナであったが、外国、とくに欧米諸国において、レーダーや航空機の盲目着陸などへの使用を目的として実用化が着々と進められていたのであった。

外国において八木アンテナが実用化されていたことを日本がはじめて知ったのは、昭和16年12月8日に太平洋戦争が起きてから2ヶ月余り後に、イギリス領であったシンガポールを攻略したときであった。驚いたことに、外国では、日本で発明された八木アンテナを新兵器として用いていたのであった。

昭和17年2月15日、旧日本陸軍がシンガポールを占領したとき、旧日本陸軍はイギリス軍のレーダーの残骸を見つけた。また、このとき、ニューマンというレーダー手の所有していた資料(ノート)が発見された。この資料には、至るところに”YAGI array”という文字が記されていた。旧日本陸軍では、このレーダーが相当優秀なものであることが分かったが、”YAGI array”の言葉はどうしても分からなかった。「ヤジ」と読むのか、それとも「ヤギ」と読むのか、その読み方すら分からなかった。そこで、レーダー手を捕虜収容所から連れ出してきて、YAGIの意味を問うたところ、レーダー手は青い目をパチクリとさせて「YAGIは貴国の人に名前でしょう」といったそうである。これより、このアンテナは「八木アンテナ」と呼ばれるようになったのである。

なお、この捕虜のレーダー手は、イギリス軍の下士官ニューマン(Newmann)であり、彼が記したノートであったことから、上記の資料は「ニューマン文書」と呼ばれることになった。

また、広島と長崎に投下された原子爆弾には八木アンテナが装着され、爆弾の爆発高度を決定するために用いられていた。

つづく

参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』

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